2014年11月3日月曜日

『レーサーズ』の進捗と『ゲッカンタカハシゴー』の今後

[↑1990年に世界GPの250ccクラスを制したヤマハYZR250]

『レーサーズ』『ゲッカンタカハシゴー』の読者のみなさん、
いつもありがとうございます。
また大変ご無沙汰してしまって申し訳ありませんでした。
ちゃんと生きております。それどころか、ますます元気。
相変わらず貧乏暇なし状態で社内、社外を飛び回っています。

近況報告としては、上に写真を掲載したように、
11月22日発売の『レーサーズ』取材でヤマハ本社に行ってきました。
予告のとおり特集する車両は、ジョン・コシンスキー選手が乗って
'90年のWGP250タイトルを獲ったヤマハYZR250(型式:0WB9)。
いやー、YZRは500も250も「マルボロレッド」がよく似合う。
そのマルボロレッドに色あせもなく、スリックタイヤにひび割れもなく、
またこの日のためにメンテナンスしていただいた北川さんをはじめとする
ヤマハ関係者のみなさん、ありがとうございました。

ヤマハ本社取材の前には、コシンスキー選手ご本人にも取材。
いやー、“little John”=息子はムチャクチャ可愛かった!
そのときの写真を掲載する前に、前号の『レーサーズ』に
ご意見・ご感想をいただいた方のなかから抜粋して返信いたします。
全部の方にお答えできず、申し訳ありません。

RC45さん、
先日アメリカで会ったジョン・コシンスキーからは、
「悪童」っていうイメージは全く感じられませんでした。
当たり前か、コシンスキーももう46歳ですしね。
コシンスキー=悪童と決定付けたのは、
'93年のオランダGPでの出来事だったかと思います。
順風満帆かと思えたマールボロ・チームロバーツと袂を分かち、
ラッキーストライク・スズキに移籍した'93年。その年のオランダで、
ヤマハTZ250Mを駆る原田哲也とのトップ争いに敗れたコシンスキーは、
RGV-Γ250をコースサイドに停めると、そのままΓを置き去りにして
表彰式もボイコット。このことでチームとの見解の相違が生まれ、
コシンスキーはシーズン半ばにしてスズキを離れることになった――。
どんだけワガママなんだと当時いちレースファンのボクも思いましたが、
真相は闇のなか……。今回の取材でもあまり語ろうとはしませんでした。
実はボク、今回コシンスキーと話すのは17年ぶりのことで、
彼がカストロール・ホンダに移籍して2年目の'97年、8耐出場のために
鈴鹿にテストをしに来た際、HRCのブースで取材したとき以来でした。
「悪童」「気分屋」「難しい性格」などと揶揄されていたコシンスキーに
取材するとなってビビりまくっていたワタクシ。
忘れもしない彼にかけたひと言目は、
「ジョ、ジョ、ジョンと呼んでもいいですか?」というもの(恥)。
そんなボクに彼は「Yes, sure」と笑顔で返してくれたのでした。
あのときに会ったカトウだよ。憶えているかい? と今回聞くと、
やっぱり「Yes, sure」。おいおい、どこまでホントなんだよ(笑)。
現在46歳、一児のパパとなったジョン・コシンスキーは、
時折神経質な面をのぞかせつつも、とても頭のいい人でした。

シュー高安さん、
『レーサーズ』の取材はメーカー側からしたら全くメリットがないとの
ご指摘ですが、ボクも全くそのとおりだと思います。
以前、ホンダのある方から、「広告出すほうがよっぽど安上がり」と
言われたことがあります。つまり『レーサーズ』から取材依頼がくると、
撮影車両のメンテナンスや移動にウン十万円、'84NSR500(Vol.8)や、
オートマRC(Vol.17)のときのように「全バラ」となるとウン百万円!?
かかるとか。技術者の取材でも、
現役の方は現在のお仕事を休止して時間を取ってもらわなくてはならず、
広報部はその方の所属部署に対してその補償をしなくてはなりません。
OBにお願いする場合はそれ以上の細かなケアが必要かと思われます。
これだけ苦労しても、『レーサーズ』は新車販売に寄与しない。
それなのにご協力いただけるのは、ご厚意以外なにものでもありません。
プラス、二輪メーカー各社にはいまだ情熱的な人が多いんだなと、
都合よく勝手に解釈しております。

無名の方、
Vol.3の「消えたガンマを探せ」企画、知らぬが仏だったとはいえ、
いまにして思えば怖い特集を組んだモンです。そういえば、
あの企画をレポートしたのは『ゲッカンタカハシゴー』の高橋 剛。
ヤツの文章力で乗り切った企画でした。懐かしい。

結局さんをはじめ、
前号の内容が絞り切れずにピンボケ感があるとお思いのみなさん、
誠に申し訳ありません。原因は私の力不足。決して会社に
ノルマを課せられて売らなければいけなかったからではありません。
ウチの会社は誇れた売り上げもない零細企業ですが、
だからといって営利追求だけの売り上げ至上主義の会社でもありません。
もちろん赤字では続けられませんが、相応の利益が上がってさえすれば、
過分なプラス収支は望まない。
じゃなきゃ、モトクロッサーの『レーサーズ』なんて作れませんもん。

moto夏木さんをはじめ、
『レーサーズ』カレンダーをリクエストしていただいたみなさん、
ごめんなさい、2015年版はありましぇん……。
理由はボクの手が回らないからという情けない事情。このへんも
商魂たくましい会社ならガンガン作って売ってゆくんでしょうねぇ。

OKwrさん、買いませんでしたサンをはじめ、
前号の印刷(特に赤色)に違和感を感じられたみなさん、ごめんなさい。
私たち編集スタッフもすぐに気が付き、印刷会社さんに
どうしてこうなったのか、次号への対策は大丈夫か問い合わせ済みです。
また、なべサンをはじめ、
誤植についてご指摘いただいたみなさんもごめんなさい。
誤字・脱字がないよう、クオリティアップにいっそう努めていきます。

1号から買ってますサン、
最後のページの取材協力欄にヤマハが入っていなかったのは
ケアレスミスでした。ヤマハ広報部にもお詫びを入れました。

息子と2ストに乗りたい43歳のパパさん、
RACERS見ながらモータースポーツの歴史を語り継ぎたいとのこと、
恐縮です。責任重大だ。がんばります。

64年式さん、
『レーサーズ』の発行部数&販売部数はどれくらいか、
廃刊にならないためにはどれだけ販売しないといけないのか
との質問ですが、お答えします。
発行部数は平均で30,000部、販売部数は平均で20,000部です。
過去最高に売れた号は“Kenny's YZR”と称したVol.2で、
重版を続けているいま現在40,000部を優に超えています。
一番売れなかった号は前にお伝えしたようにワタクシ加藤が
最後に作ったVol.26で、販売部数は12,000部でした。
廃刊にならないため≒損益分岐部数は「10,000部」です。
これはいわゆる「公称部数」ではありません。

以下、近況報告に戻らせていただきます。

次号の『レーサーズ』取材でジョン・コシンスキーに会ってきました。
って簡単に報告してますが、実は会うまでが大変だったんです。
外国人を取材する際は、「レース界のおっかさん」こと塚本ネーサンに
まずアポ取りをお願いするんですが、そのネーサンの人脈をもってしても
なかなかコシンスキーに辿りつかない。
要は誰も彼の連絡先を知らなかったんです。そんなとき、
「もしかしたら!?」とネーサンが気付いたのが、アーブ・カネモトさん。
アーブさんとコシンスキーは、彼が現役最後の年となった'99年の世界GPで
チームオーナーとライダーという関係で、いまも交流があったんです。
アーブさんが「ハツミ(塚本ネーサンのこと)が連絡を取りたがってる」と
伝えると、コシンスキーも「ハツミなら憶えてる」ということで、
今回ようやく会えることになった次第です。アーブさん、ありがとう。
で、こんなふうに(↓)取材!? してきました。


そりゃあもう、4歳になる“little John”が可愛くて、可愛くて(笑)。
親父John(写真右側)に会えた感動よりも、小さいJohn(左側)の
愛くるしさのほうが印象に残った取材でした。エッ、違う!?
ちなみに、コシンスキー家はこの父親と息子のふたり暮らしです。

コシンスキー取材の1週間前は、九州・熊本で
ケニー&ともこさん夫妻に会ってました。って、ケニー寝てるけど(↓)。


ケニー率いるUSA御一行様(奥様ほかケニーのツーリング仲間十数人)は、
今年も9月下旬に来日→熊本入りして、阿蘇山周辺をツーリング三昧。
なんで毎年来てるのかというと、奥様のご実家が熊本なのと、
阿蘇を中心とした九州のツーリングコースにハマッてしまったから。
さらに地元有志のみなさんと意気投合したケニーは、
阿蘇ライダーズベース」の名誉会長に就任するとともに、
来日中最後にして最大のイベントである「PEACE RIDE」に
ゲスト出演しているからなんです。で、上に挙げた写真は何かっていうと、
連日のツーリング&宴会でいい気分になって寝ちゃったケニーと、
入った居酒屋さんの名物「ちゃんぽん」をつつく奥様ともこさん。
店に入ったときは「ちゃんぽん」食べる気満々だったケニーでしたが、
焼酎をひと口なめると「F○CK!」と言ってイチコロ爆睡zzzz。
神様KINGケニーも、熊本の焼酎の味には勝てなかった!?

日付はさかのぼって、9月17日にはホンダ・コレクションホール所蔵の
レーシングマシンの動態テストが行われるってんで、
ツインリンクもてぎまで行ってきました(↓)。

[↑久しぶりに嗅ぐ2スト混合ガスの匂いはいい香り]

この日、走行した車両は以下のとおり。
二輪:RC142('59)、CB750RACER('70)、NS500('84 ※上の写真)、RVF750('91)、NSR500('97)、NSR250('01)
四輪:ウイリアムズホンダFW11('86)、マクラーレンホンダMP4/4('88)、マクラーレンホンダMP4/5('89)
走行担当は二輪・四輪とも、おなじみ宮城 光さんが務められました。

で、ターボエンジンがブン回るF1の横で元HRCのとある技術者さんと話した
ボクたちの結論――「やっぱりバイクは2ストだ!」

最後に『ゲッカンタカハシゴー』の現状と今後について話させてください。
まず『ゲッカンタカハシゴー』第1ゴーをお買い上げいただいたみなさん、
ありがとうございました。また厳しいご意見をいただいたみなさんにも
感謝申し上げます。ありがとうございます。

第2ゴーを出せるか否かは第1ゴーの売れ行き次第と公言してきました。
ウチの社長とはそのボーダーを「7,500部」としたワケです。
これが『ゲッカンタカハシゴー』の損益分岐部数。
つまり、7,500部を下回ると赤字です。で、いま現在の、
書店さんPOSデータから予想した最終実売部数は「7,801部」。
ギリギリですが、なんとか約束数字はクリアーできそうな見込みです。
で、さっそく社長に「2号目をやらせてくれ」と言いに行くと、
「営業利益が一定額望めないと、いまはどの雑誌に対しても
GOサインは出せない」と言われてしまった。
「過分な収支は望まない」とは言え、このままでいくと第1ゴーは
わずか2万円強しか儲からない予想……。
「約束が違う!」と言いたいところですが、利益がこの程度だと
さすがに反論できません。経営者の判断が痛いほど分かるからです。

で、どうするかというと、ギャラなどの支出はもう削れませんので、
あとはクライアントのみなさんから広告をいただいてくるしかない。
実は『レーサーズ』とは違って『ゲッカンタカハシゴー』は、
業界各位と協調し合いながらマーケットを拡大したいと思っていました。
つまり広告売上を立てるのは当初からのチャレンジ項目だったのです。
ただあまりにも内容が既存媒体と違うので、まず1号目を作り、
それを持って営業に出掛けようと思っていたところです。

「第2ゴーあるとしたら'15年1月発売」と告知しましたが、
撤回させてください。今年いっぱい業界各位に協力をあおり、
年明けに刊行判断。第2ゴーあるとしたら来年春ごろとなります。
商売は大変だと、つくづく実感。

あ、それともうひとつ報告がありました。
今年も『レーサーズ』の特別編集版を作ります。
今年1月4日に発売した「'83WGP FREDDIE vs KENNY」に次ぐ第二弾。
果たして、どんな対決編が組まれるでしょうか(←出し惜しみ)。

(編集カトウ)

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